天候不順・災害により江戸時代には、飢饉がなんども起きています。当時の被害はどの程度のものだったのでしょうか。また、どのような対策をしたのでしょうか。
飢饉とは
天候不順や災害などにより、地域全体で食料が不足し、社会的に深刻な影響が出る現象のことと定義されています。
江戸時代の人の主食は米でした。その米が数年に渡り不作となり、また、農民の主食の雑穀にも影響を及ぼすほどの災害となりました。
農業の偏り:江戸時代は米本位制で水田中心の農業が推奨され、雑穀の栽培が軽視されていたため、備えが不十分でした。
冷害・長雨・虫害:稲だけでなく、あわ・ひえ・そばなどの雑穀も発芽や成長に必要な気候条件を満たせず、広範囲で凶作でした。
もう少し詳しく見てみましょう。
江戸の三大飢饉とは
江戸時代に発生した特におおきな飢饉を、江戸の三大飢饉と呼びます。
| 名前 | 年号 | 将軍 | 地域など |
|---|---|---|---|
| 享保の大飢饉 | 享保17年(1732年) | 徳川吉宗 | 地域:中国・四国・九州地方の西日本各地、特に瀬戸内海沿岸一帯 原因:冷夏と虫害 |
| 天明の大飢饉 | 天明2年(1782年)- 天明7年(1787年) | 徳川家治 | 地域:全国(特に東北地方) 原因:浅間山噴火とエルニーニョ現象による冷害 |
| 天保の大飢饉 | 天保4年(1833年)- 天保10年(1839年) | 徳川家斉 | 地域:全国(特に東北、陸奥国・出羽国) 原因:大雨、洪水と、それに伴う冷夏(稲刈りの時期に雪が降ったという記録がある) |
天明の大飢饉(1782〜1788年) 10代将軍 徳川家治(側用人:田沼意次
江戸時代の一番大きな被害が発生した天明の飢饉は次のようなものでした。
江戸時代中期に発生した日本史上最大級の飢饉。
主な原因は、冷害・異常気象・浅間山の噴火(1783年)による農作物の壊滅とされています。
特に東北地方で被害が深刻で、弘前藩では10万人以上が餓死したと記録にあります。
全国的には最大で約90万人の人口減と推定されています。
飢えのあまり人肉食の記録も残されているほどの惨状となり、この飢饉を契機に、松平定信による寛政の改革が始まりました。
東北地方の各藩の状況です。
弘前藩(青森県西部)
藩主、津軽寧親(つがる やすちか)
飢饉対策が不十分で、藩内で10万人以上が餓死したとされる。
盛岡藩(岩手県)
藩主、南部利敬(なんぶ としゆき)
対策が遅れ、藩人口の約4分の1にあたる7万5千人が死亡。
八戸藩(青森県)
藩主、南部信真(なんぶ のぶざね)
被害が深刻。藩人口の半数が餓死したとされる。
記録の詳細は、以下のサイトで見ることができます。
「八戸市史編纂室」
https://www.lib.hachinohe.aomori.jp/wp-content/uploads/2019/01/dayori_4.pdf
仙台藩(宮城県)
藩主、伊達重村(だて しげむら)
財政難の中、米の買い上げ政策を実施するも効果は限定的。
自然災害以外の原因
自然災害とは別の理由もあります。
- 藩外への流出:収穫量が少なくても年貢として取り立てられたこと。
- 新田開発:稲の育ちにくいところにまで新田を開発したこと。
幕府・藩による主な飢饉対策
飢饉の直接の原因は、天候・自然災害でした。人は、当時どのような飢饉対策をとったのでしょう。
囲米制度(かこいまい)
- 各藩が米を備蓄し、飢饉時に放出する制度です。
- 松平定信の「寛政の改革」で制度化され、米沢藩などが積極的に導入しました。
- 備蓄用の倉庫(米蔵)が各地に建設されました。
凶作に強い作物の導入
天候不純により凶作となった原因には、病害虫や冷害に弱くても、高収穫量の品種を選んだことも一因と言われています。当時の流通して金となる米への転作が進んだこともあります。
その対策としては、
- サツマイモ(甘藷)やジャガイモなど、冷害や旱魃(かんばつ)に強い作物を奨励すること。
- 享保の飢饉後は、青木昆陽がサツマイモの試作を命じられ、全国に普及させました。
青木昆陽とは?
江戸時代中期の、幕臣御家人、書物奉行、儒学者、蘭学者です。
昆陽は飢えに苦しむ人々を救う道はないものかと、いろんな書物を読みあさりました。その中で、中国では飢饉の際の非常食として甘藷(サツマイモ)を栽培していることを知り、「蕃藷考(ばんしょこう)」(1735年刊)という書物にまとめました。
昆陽は、この書で甘藷の効用を記載しています。「簡単に栽培ができる。土の中に”いも”ができ、風や雨に強い。種芋からたくさんの”いも”がとれる。穀物の代わりになる。お酒もつくれる」
やがて、この「蕃藷考」は、江戸町奉行・大岡越前守忠相の知ることとなり、8代将軍徳川吉宗の耳にも入ります。吉宗は、昆陽に甘藷の栽培を命じました。
東京都目黒区の目黒不動(竜泉寺)には、青木昆陽の碑があります。(かなり大きいです。)
https://www.city.meguro.tokyo.jp/shougaigakushuu/bunkasports/rekishibunkazai/kansho.html
救済施設の設置
救済施設も作りました。しかしこれは、一時的な効果でしかありません。
- 「救小屋」などの施設で、困窮者に食料や衣類を配布。
- 一部地域では炊き出しや医療支援も行われました。
加工食品の製造・販売の制限
- うどん・饅頭・そうめんなどの製造を禁止し、穀物の浪費を防止します。
- 商業目的での穀物使用を制限することで、庶民の食料確保を優先しました。
当時は、小麦や雑穀を加工するよりも、そのまま配給して飢えをしのぐ方が効率的と判断されたためです。
飢饉のときは、うどんが「贅沢な食べ方」とされ禁止されることもありました。
倹約令の発布
- 武士や商人に対して贅沢を禁じ、資源を飢饉対策に回すこと。江戸時代なんども倹約令は公布されています。
- 浮いた資金で他地域から穀物を買い取り、民衆に分配します。
情報提供と教育
- 食べられる野草や有毒植物の知識を広めるための書物を刊行することを勧めます。
- 米沢藩が発行した「かてもの」には、調理法や薬草の情報が記載されています。次では、「かてもの」についてみていきます。
かてもの(米沢藩)
かてものとは?
米沢藩が飢饉に備え、糧(かて)となる野草類をいろは順位に列記し、調理法・食べ方を記したもの。木版印刷して領内に配布し、天保の飢饉の際に役立ったといわれる。
市立米沢図書館のサイトに現物(木版)のリンクがあります。
https://www.library.yonezawa.yamagata.jp/dg/KR003.html#:~:text=米沢藩が飢饉に,際に役立ったといわれる%E3%80%82
内容を抜粋して、記載します。
「かてもの」とは、主食(米や麦)に混ぜて炊くことで量を増やす代用食材のこと。
飢饉時に白米の消費を抑え、栄養を補うために使われました。
書物としての「かてもの」には、食用可能な植物82種が「いろは順」で掲載され、調理法や保存法も記されています。
■掲載された代表的な食材と調理法です。
| 植物名(地方名) | 用途・調理法 |
|---|---|
| スベリヒユ(ひょう) | 茹でて芥子醤油で食べる、干して煮物に (オメガ3脂肪酸が植物の中で一番多く含まれています。) |
| わらび・ぜんまい | 天日干しして保存、煮物や和え物に |
| くずの根 | 澱粉を取り出して粉にし、餅や団子に |
| からすうりの根 | 加工して食用に(安全性に注意) |
| 松の皮 | 粉にして餅に混ぜる「松皮餅」 |
為政者(藩主)による違い
米沢藩(山形県)
藩主、上杉斉定
天明の大飢饉(1783年)で米沢藩は藩蔵を開放し、領民に米を配給しました。餓死者ゼロを達成したものの、藩の財政は破綻し、再発防止のため上記でも記載した「かてもの」が編纂されました。
天保の大飢饉(1833年)では、藩主・上杉斉定が「かてもの」を実践し、再び餓死者ゼロを達成しました。
※第二次世界大戦後の食糧難でも活字化されて配布され、飢えをしのぐ知恵として活用されました。
白河藩(福島県白河市周辺)
藩主、松平定信
・越後の分領から米1万俵を確保し、急ぎ白河へ輸送、会津藩からも6000俵を購入するなど、広域での米の調達に奔走しました。
・質素倹約の徹底:自らを含め藩内全体に倹約を促し、無駄を省いて食料の分配を最優先にしました。
こちらも「餓死者ゼロ」という成果を挙げたと伝えられています。
・次の飢饉に備え、民間からの寄付を募り、「郷倉(ごうぐら)」という穀物備蓄庫を各村に設置します。
・冷害に強い作物として「そば」の栽培も奨励しました。
文化と産業の振興 飢饉後も藩の経済を立て直すため、馬の育成や「白河だるま」「白河そば」などの特産品開発にも力を入れました。松平定信は、後に幕府の老中となり「寛政の改革」を主導しました。
共通して言えることは、飢饉対策の成否は、為政者の判断と準備に大きく左右されたといわれています。
食べられる野草
知っておくと良いかもしれません。日本も終戦の頃は、食べられる野草の知識を多くの人が持っていたのではと思います。緊急時に、スマホが使えないということもありますし。見やすいです。
その他、参考図書
結構あります。(後述します。)
