江戸の朝顔

朝顔を見ると「夏だなぁ」と思い、小学校での夏休みの観察日記、夏の朝、ラジオ体操と連想してしまいます。夏の風物詩ですね。

ふと、「朝顔って日本の花なの?」、「青紫の綺麗な花、昔から日本にあるの?」と思い調べてみました。

その中で、面白い出来事がありました。それは、江戸時代に朝顔が大人気となりました。変化朝顔というものがブームになったそうです。普通の朝顔と違うの?それは何?

順番にみていきましょう。

朝顔の起源は?

 始めに朝顔の起源からみていきましょう。日本に朝顔が伝えられたのは、奈良時代の終わり頃、遣唐使が種を薬として持ち帰ったと言われています。その頃の花色は、青色だったと伝えられています。

 朝顔が薬ってどういう効用?:平安時代の初めに作られたお薬の辞典『本草和名』に朝顔は「牽牛子(けんごし)」と呼ばれていました。万葉仮名では「阿佐加保(あさがほ)」と表記されています。下剤として使われていました。種子に排便を促す効果があり、誤って口にすると、腹痛、下痢、嘔吐などを引き起こします。子供が誤って口にすると大変ですね。

また、平安時代には紫式部の『源氏物語』に「朝顔の姫君」という女性が登場します。光源氏が「朝顔」に歌を添えて朝顔の花を贈る部分があります。

一言、憎しなども、人づてならでのたまわせんを、思い絶ゆるふしにもせん

(ただ一言、「嫌いです」と人づてでなく言ってもらえたら、あきらめるきっかけにもできるのに!)

そのあとも光源氏のアプローチにも関わらず、朝顔は光源氏になびくことはありませんでした。唯一、プレイボーイ光源氏を振った女性です。

江戸時代に変化朝顔ブーム

江戸時代に入り、太平の世になります。そして様々な文化が花開きます。そのひとつが園芸ブームとなります。

朝顔に水をやる娘

江戸時代の初めには絵師・狩野山雪が金地に、色鮮やかな青と白の朝顔が花開く襖絵を描きました。キャノン「天球院方丈障壁画 籬に草花図襖まがきにそうかずふすま」(別タブで開きます。)のページをご覧ください。朝顔が咲き誇る様子が18面(枚)に描かれています。

その後「変化朝顔」という朝顔が作り出され、その朝顔は高値で取引されるようになります。すると朝顔投資、園芸投資ブームが起こりました。オランダでは、チューリップ(球根)が投資対象であったと聞かれたことがあると思います。それが日本でも起きていました。

作り出された朝顔とはどのようなものだったのでしょうか。江戸時代の書物から見てみましょう。

朝顔ブームは二回ありました。
・文化・文政期(1804~1830)に1度目
・嘉永・安政期(1848~1860年)に2度目

2度目のブーム時に発刊された書物に当時の変化朝顔が描かれています。

『朝かがみ』東雪亭/著、葛通斎文岱/画:嘉永年間(1848-53)






別の書物にも、変化朝顔は描かれています。

『朝顔三十六花撰』服部雪斎:嘉永7年(1854)

江戸時代に朝顔を栽培していたのは武士

では、どのような人が朝顔を栽培していたのでしょうか。

江戸時代、朝顔は下級武士によって育てられていました。武士がどうしてと思いますよね。当時の武士は「上級武士」と「下級武士」として分けられていました。
上級武士は旗本と御家人と言われ「城での役目」があり「給料も高く」、対して下級武士は「役目もなく(戦いもない)」、「給料(俸禄)は決まった金額はもらえるが金額は少なく」、常にお金に困っていました。そこで、目をつけたのが朝顔の栽培でした。武士の副業としては「傘張り」、「金魚養殖」などもありました。

こちらにも、「武士と副業」として記載しています。

江戸の何処で、いつ頃から始まったのか

江戸時代は、同じことをする「ひとっところに集める」ことが多くありました。

それを起こしたきっかけがありました。

江戸時代は、大火が多く、丙寅の大火(1806年)がきっかけとなりました。
御徒町周辺に住む御徒目付おかちめつけという下級が栽培していましたが、大火により下谷(現在の東京都台東区)に大きな空き地ができ、そこに植木職人たちが品種改良した朝顔を栽培しさらなるブームを起こしました。

入谷朝顔発祥之地・下町文化発祥の地碑というものがあります。
入谷の朝顔市のご近所ですね。

入谷朝顔まつり – 2023年(令和5年)

朝顔といえば、こちらを書かないわけには行きません。今年(2023年)に4年ぶりに開催されます。

・7月6日(木)17:00 ~21:30
・7月7日(金)17:00 ~21:30
・7月8日(土)12:00(正午)~21:30

夏の風物詩である朝顔。今年も楽しみたいと思います。

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